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このページでは、2012年度第2回NII市民講座「クライシス情報学」(2012年7月19日)に関する情報をまとめます。

なお2006年に開催した前回の市民講座「台風情報 〜 情報技術によって変わるメディアの伝え方とは」に関する情報もご覧下さい。

質疑応答

質問1:

海外のクライシス情報学の状況を教えてください。

回答1:

クライシスというのは非常に意味が広い言葉で、自然災害(natural disaster)だけではなく、人為災害(human-made disaster)や政治や戦争によって引き起こされる人道危機(humanitarian crisis)、さらには感染症による健康の危機や経済の機能不全による危機など、社会の混乱に関係するあらゆる場面を含む概念です。あらゆる危機には共通する部分もあれば共通しない部分もありますが、その中で共通する部分を対象として、特に情報(コンテンツ)の組織化に関連する知識を体系化することを「クライシス情報学」の課題だと考えています。

クライシスに対応するためには様々な分野の知識が必要になりますが、情報を集めて整理し、分析や可視化を通して状況を理解する方法も重要な知識の一つです。そして近年は情報量の増大に伴って、大規模な計算アルゴリズムとそれを支える情報・通信基盤がなければ、こうした問題を解決することは難しくなっています。従来は「災害情報学」という分野において、情報の伝達方式や行政の組織体制、既存メディアの分析、パニックのメカニズムの研究など、社会学や心理学に近い視点の研究が進められてきました。そこに大規模情報処理技術の活用と新しいメディアの創生を研究する「クライシス情報学」の知見を加えることによって、自然災害に限らず多様なクライシスに対する革新的な解決策を見出したいと考えています。

このような方法は、情報環境が整った先進国では現実的な方法と言えますが、情報環境が整っていない発展途上国では実現が困難なのも確かです。データを迅速に集める観測網や、それを処理する情報基盤の整備には、資金的にも人員的にも様々な困難が伴います。しかしインターネットや携帯電話の普及によって、発展途上国で発生するクライシスを先進国から支援する体制も徐々に整いつつあります。例えばGoogle社はクライシス対応に力を入れており、Crisis Response - a google.org projectにおいてGoogle社の社会貢献活動(google.org)の一つとして、世界中のクライシスに対して即時に活動を開始できる体制を整えています。またクライシスマッピングの世界でも、ケニヤでの政治危機監視から開発が始まったオープンソースソフトウェアUshahidiを用いたCrowdmap | Create and Share Interactive Maps Onlineが、世界の誰もが地理情報を簡単にまとめられるウェブサイトをサービスしており、発展途上国におけるクライシスの状況把握にも使われています。

このように、クライシス情報を現代の情報技術を使って革新しようと考えるとき、そこにはいくつかの課題があります。第一に、人々が広域に連携するためのツールとなる、高速インターネット、高性能端末(スマートフォン等)、共同作業環境(ウィキ等)、情報収集インフラ(ソーシャルネットワーク等)などの構築です。ここには、電源や通信が十分に得られない現地から情報をどう発信するかという課題も含まれます。第二に、情報を統一的な基準のもとで整理するための標準の確立です。データフォーマットの定義や、組織を越えて概念を共有する仕組みなどが課題です。第三に、整理されていない不定型なデータから重要な情報を抽出するための自然言語処理や地理情報処理などの研究です。現在はテキスト情報が中心ですが、音声情報処理や画像情報処理も活用する方向に進むでしょう。第四に、整理された情報を人々に伝えるためのメディアのデザインです。これには、データを「見える化」する可視化手法の研究に加えて、人々が欲しい情報を自動編集して提供する方法や、データジャーナリズムを参考としたメディア設計なども必要になります。

このような研究は、クライシスが頻繁に発生し、かつ情報学に関する研究の厚みがある地域で主に進められています。特に米国は自然災害と人為災害の両方が重要な課題となっており、ソーシャルメディアの活用などの「新しい方法」も積極的に取り入れる気風があります。またクライシスと軍事は共通する部分が大きいため、軍事との関連という意味でも米国には厚みがあります。一方発展途上国では、観測データを得るセンサ網、そしてリアルタイムで共有するためのネットワーク網が整備途上である場合が多く、クライシスに関する情報を出してもそれを理解できる住民もそれほど多くはありません。技術と教育の両面から、先進国の支援が重要な役割を果たすことが期待されています。

質問2:

災害時のビッグデータを、少しでも有効活用する方法に、メタファーを予め設計しておいてビックデータから、そのメタファーに分割して当てはめるというのが考えられると思います。そのような研究は、なされているでしょうか?

回答2:

メタファーを設計しておくというのはよい考えだと思います。例えば在日米軍の台風警報にまとめたように、日本の気象庁が出す気象警報は予想される気象現象を説明するメッセージが主であるのに対し、在日米軍の台風警報は気象現象の変化に対応するための一連の行動をイメージさせるメッセージとなっています。クライシスの進行状況をストーリー(物語)というメタファーに当てはめれば、単なる数値データよりも事態の進行を理解しやすいかもしれません。

また、地図を現実のメタファーと考えれば、地図はもっと多くの可能性を秘めていると考えています。一方、時間のメタファーは空間に比べると難しい面もありますが、タイムライン(年表)の形式にあてはめたり、時間軸を空間のアニメーションに押し込めて変化する地図として実現する方法もあります(例えば台風前線など)。どんなメタファーが有効か、私自身も関心がある問題ですので、今後も考えていきたいです。

質問3:

不確実なデータの拡散によるパニックを防止することは可能でしょうか?

回答3:

クライシスの直後は、どんなデータも不確実性を内包していますので、不確実なデータそのものをなくすことはできません。以前はそうした「混乱を招く」不確実なデータは出さないほうがよいというのが世の中の風潮で、例えば災害の可能性を示すハザードマップなども、情報を出すことによる負の影響を懸念した反対意見が強くありました。しかし近年のように情報が大量に流通する社会になると、情報はどこかに記録されて漏れ出すことが多くなり、不確実な情報を公表しない姿勢は「隠蔽」と批判されるようにもなりました。個別の事例には様々な議論があるとはいえ、不確実なデータも公表するというのが世の中のトレンドだというのが私の基本認識です。では不確実なデータの公表は避けられないとして、それにどう対応すればいいのでしょうか。どんな人間にも、情報の不確実さを減らしたいという欲望があります。そのため、不確実な情報は想像や悪意によって欠けた部分を埋められ、歪んだ形で他者に伝えられることになります。

今回の震災で有名になった事例に、「コスモ石油千葉製油所の火災によって有害物質が発生する」という流言がありました。火災の影響がわからないという状況において、そこに「有害物質が出る」という解釈が与えられ、さらに「関係者からの情報」などといった尾ひれがドンドンついて、情報の「見かけ上の確実さ」が人為的に増加していく伝言ゲームが始まってしまいました。結局この流言は、コスモ石油広報室による公式発表によって否定されましたが、長い時間にわたってネット上で拡散したことが事後の調査でわかっています。

このようにネット上で広がる流言を打ち消すための一つの方法は、「公式発表」と「多人数に同時に伝えることのできるメディア」とを組み合わせて正しい情報を迅速に広める方法です。もっと能動的な方法としては、今回の震災後に登場した流言・デマ検証サービスのように、「これはデマ?」と疑問が生じた時に素早く検証できるサービスをネット上に立ち上げる方法があります。そこを拠点にして流言やデマを打ち消す情報の流れを生み出すという考えですが、現状では自動的にデマを検証することは困難ですし、それを人手で行えば検証者に大きな負担がかかります。またそもそも情報の正しさを判断するのが難しい場合には、検証者自身が間違えたり新たなデマの発信源になったりすることもあります。こうした情報の流れを変えていけばいいのかは、今後考えていくべき課題です。

さて、コスモ石油に関する流言は確かにネット上では広まりましたが、パニックというほどの混乱は生じなかったというのが私の認識です。それに対して、ガソリン不足、食料不足、さらには水道水からの放射性物質検出に始まる水不足などは、よりパニックに近い心理状態を引き起こす状況だったと考えています。物流状況に関する不確実な情報(次にいつ入荷するかわからない)は、人間の生存に必須な物資の確保が困難になるという具体的かつ差し迫った脅威であり、しかも正しい情報が未知の状況では公式情報で打ち消すことも困難です。こうした状況を情報のコントロールだけで落ち着かせることは難しく、例えば水の販売を「子供をもつ家庭」に限定するといった強制力を伴う秩序の回復が必要なのではないかと思いっます。

質問4:

数値データが情報に加わることで、客観的に見ることが可能になりますが、数値のとらえ方が人によって異なるように思えます。基準となる数値を決めてくれる機関はないのでしょうか?数値の一人歩きも混乱の元と感じます。

回答4:

数値データの解釈は人によって異なります。古典的な例として、コップの50%に水が入っている状況を考えてみましょう。事実を客観的に記述するならば、「コップの半分に水が入っている」でしょう。しかしそれを「コップの水は50%も残っている」と見るか、「コップの水は50%しか残っていない」と見るか、そこには事実を越えたデータの解釈や価値判断が入ってきます。データとしては同じ「50%」でも、その見方は正反対です。注意すべき点は、この問題は「コップの水は50.1%入っている」というように、より細かな数字を出すだけでは解決できないという点です。根本的な原因は、データを解釈する基準となる文脈(背景事情)が異なる点にあるからです。

ここでいう文脈とは、数字に直接表われていないけれども、データの「意味」に影響を与える事項を指します。例えばコップの水が10%でも大丈夫という状況なら「も残っている」と見てもよいでしょうし、コップの水が40%でも危険な状況なら「しか残っていない」と見るべきでしょう。また個人差の問題もあり、楽観的な人なら「も残っている」と言いがちでしょうし、悲観的な人なら「しか残っていない」と言いがちです。このように文脈によってデータの解釈は異なるため、文脈が数字と分離してしまうと「数値の一人歩き」が始まりますが、文脈は一般に言語化しにくかったり複雑だったりすることが多いため、「手短に、結論だけ」が欲しい場合にはどうしても省略されがちです。このデータはどんな意味なんだろうと考えるとき、これをどういう文脈のもとで解釈すべきなのだろうと考えることがまずは重要だと思います。

とはいえ、「そこは任せるから誰か基準を決めてくれないか」と思うのも自然な感情です。ところが厳密に「科学的な」態度を保つとすれば、文脈によって異なる解釈に対して、ただ一つの「正解」を出したり、どちらがよいという「価値判断」をしたりすることはできないという結論になってしまいます。それはある意味では専門家が人々を「突き放した」態度に見られるかもしれません。知識も経験も乏しい人々にとっては、単なる数字を前に「後は解釈してね」と言われても途方にくれてしまうからです。そしてそのような人々の前に、データの解釈方法を「断言してくれる」人が現れたらどうなるでしょうか。その断言に根拠があるかどうかは別として、なんとなく安心してその人の言うことを信じたくなってきます。そして徐々にある一つの見方に囚われてしまい、先入観なくデータを見ることが難しくなってきます。どう解釈するのも自由ではあるのですが、かといって「妥当」な解釈を示さないままでいいのだろうか、という疑問を抱かせたのも今回の震災でした。異なる意見が飛び交う不確実な状況に耐えつつ、自分の判断を固めていくという作業は、誰でもできる簡単なことではありません。正解を出すとまではいかないにしろ、専門家が人々に寄り添って、妥当な解釈を伝えていくところまで踏み込むことも必要なのではないかと感じています。

ではそのように妥当な解釈を与えるのはどうすればよいのでしょうか。一つの解決策は、データの絶対値を相対値に変換して比較するという方法です。絶対値だと、それがどのくらい大きいのか、小さいのか、数字自体に詳しい人でないと直観的にはわかりません。マグニチュード9.0、津波の高さ10m、放射線量1ミリシーベルト/毎時、その数字だけを聞いて大きさを把握できる人は専門家に限られます。しかし、観測史上最大の地震、ビルの3階が水没する津波、自然放射線量の1万倍の放射線量など、絶対値を相対値に変換して比較対象を例示する方法は、データの解釈を助ける一つの取っかかりになります。例えば、あるデータを共通基準で比較可能な数値に変換するという方法は、多種のリスクを比較することが求められるリスク評価の研究では以前から検討されてきた課題です。リスクに限らず、どんな比較対象だとわかりやすいのか、図解などによってさらにわかりやすくできないか、個人差はどのように反映すればよいか、そうしたことをいろいろな機関で事前に考えておくことが求められていると思います。

質問5:

データを広く流す際に、データの信頼性を評価した上で発信する能力は、どれくらい確立できるでしょうか?

回答5:

データの信頼性を評価することについては、いくつかの基準があります。例えば私なりの基準として 1)データの存在に関する信頼性、2)データの解釈に関する信頼性の2つに分けて考えてみましょう。

まずデータの存在に関する信頼性が問題となるのは、クライシス直後の救援要請や避難情報など、背景がよくわからないデータであっても「裏取り」はできず、時間的な制約のもとで活用せざるを得ないような状況です。発信者の信頼性を判断することは難しく、データのでっち上げやデマなどをデータの中身を中心に判断しなければなりません。これは大変に難しく、ある程度の間違いは避けられませんが、緊急性を優先するという基準のもとでベストを尽すしかないと思います。ただし二次的なデータには不適切な改変が混ざっている場合も多いため、できるだけ一次的なデータにアクセスするように心掛けることが重要です。

一方でデータの解釈に関する信頼性が問題となるのは、データを解釈する文脈が様々に存在して、正反対の解釈が導き出せるような状況です。データの不適切な解釈や偏った解釈を避けるには、究極的にはそのテーマに詳しいことが必須条件だと私は考えています。もし怪しげな解釈がある場合、そのテーマに詳しければ直観的に「あれ?」とおかしさに気付くことも可能でしょうが、それにはやはりある程度の背景知識は必要です。時として、計算方法の正しさを解釈の正しさにすり替えて、意図的に偏った解釈を広めようとする人もいますが、前提条件が間違っていればいくら正しい計算をしても正しい解釈にはなりません。ところが、計算の正しさと「釣り」っぽい煽情的なメッセージがセットになっていれば、引っ掛かってメッセージを拡散してしまうこともあるでしょう。すべてのテーマに詳しい人はこの世にいませんので、これは決してひとごとではなく、注意しなければ誰にでも起こりうることです。

この問題に関する一つの解決策は、自分が詳しくないテーマに関するデータについては、反射的な論評は避けるという方法です。「自分が詳しくないテーマ」とは何でしょうか?簡単な基準は「自分の言葉で語れるかどうか」です。発信者の言葉の孫引き、あるいはそれに関する記事や本のコピペ、そういう言葉を借りてこないと語れないのであれば、それは「自分の言葉で語れない」テーマです。その場合は、とりあえず反射的に発信するのはやめて、関連する情報を比較しながら自分の考えをまとめてみましょう。それに対して、他者の言葉を借りなくても自分の言葉で語ることができ、反論を受けても自分の言葉で反論できるなら、それは自分の言葉で語れるテーマです。そのときは、「私はこう思う」と自分の言葉で発信してみましょう。

上記のやり方は、特にツイッターのような日常的なメディアを使う場合には、やや厳しすぎる基準かもしれません。ただ、ソーシャルメディアで「炎上」する事例を見ていると、自分の言葉で語れない人が安易に情報を発信してしまい、それに対するツッコミに答えられる自分の言葉を持ち合せず、苦し紛れに個人攻撃に走るというパターンが多いように思います。そうならないためにも、自分が詳しくないテーマについては「ホントかな?」と疑いの眼で見つつ、他の人の解釈なども参考にして自分の考えを固めてから発信するように心掛けて下さい。

質問6:

「震災対応から私が学んだ教訓」に共感致します。その中の「平常時から準備しておかないと・・」について教えて頂きたい。

  1. ジオコーディング/ジオタギングという技術は普段どの様に使おうとしていますか?
  2. ふってきったーを大勢の人々に普及する方法は?
回答6:

ジオコーディング/ジオタギングについては、GeoNLPのサイトを見て下さい。現在のところGeoNLPのサービスを使ったサービスを以下のように3つ運用しています。

  1. ふってきったー
  2. 東日本大震災ニュース分析
  3. デジタル台風:ニュース・トピックス

特に「ふってきったー」のようなアイデアは、気象現象に限らず他のイベントを探すことにも使えるはずで、私もアイデアはいろいろあるのですが実現はしていません。ただ他の方々のサービスでは、紫陽花革命 Hydrangea RevolutionのようにGeoNLPを利用して人手による情報チェックを省力化している事例があります。

ソーシャルメディア経由のデータをまとめる場合、データの品質を保証することが原理的に難しいため、信頼できない情報を利用することに対して拒否感を持つ人が必ず出てきます。そのため、まずは数ある情報源の中の一つという位置付けで、こうした情報でも価値を感じる人々に普及させていくことが必要であると考えています。

質問7:

インターネット環境が使えない(停電含め)状況で被災地、避難所での情報提供方法でどんなツールがベストでしょうか?行政(地元市町村に限らず)中央官庁等が収集した情報を被災者へ伝えるために教えてください。

回答7:

まずインターネットと電源が使えない環境は、今後の災害においては可能な限り解消していくように努力していくべきだと考えています。もちろんそれが大変に困難なことは百も承知していますが、それらが使えなければ可能なことは限られますので、なんとか使えるように、あるいは迅速に再開できるように、知恵を出し合いたいものです。例えばインターネット回線については、今回の震災でも衛星インターネット回線を避難所に持ち込み、みんなで共有して使ったという事例がありました。また電源についても、バッテリーや発電装置さえあればしばらく動きますし、今回の震災では電気自動車のバッテリーが大活躍したという事例もありました。こうした状況を考えると、これは技術的な問題というよりは、バッテリーや発電装置のコストや運用体制という経済的な問題と考えたほうがよいのかもしれません。

とはいえ、クライシス時でもインターネットと電源が常に使えることを前提にするのは、やはり非現実的です。基本的には使えないことを前提にして議論を進めるべきでしょう。となると、使えるメディアはやはり「紙」になります。避難所に紙を張り出す、それをみんなで読む。原始的な方法ですが、最も確実です。震災の津波で新聞発行が困難になった石巻日日新聞が、新聞ロール紙に手書きでニュースをまとめて避難所に張り出したという行動が、ジャーナリズムの原点を示すものとして世界中で称賛されました(実物のデジタル化)。このように紙に情報をまとめるというのが、最後の手段としては基本になるのではないかと考えています。

となると、避難所にプリンタさえあれば、何らかの手段で電子的に得た情報を紙にプリントしてみんなで共有できることになります。例えばスマートフォン等の携帯端末でダウンロードした情報をメモリカードなどに保存し、そのメモリカードを插せば印刷できるプリンタがあれば、プリンタの電源さえ確保できれば情報を共有できます。また、行政が取りまとめた情報がそのままでは避難所に適さない形式である場合、別の土地にいる情報ボランティア(ただし現地の土地勘があることが必須です)が避難所向けに情報を編集し直すことも可能でしょう。ちょうどGoogle Crisis Responseの安否情報システムで、避難所の名簿写真の読み取りを別の土地の情報ボランティアが進めたのと同じような方式です。こうしてまとめ直した情報を避難所にメール送信し、それを避難所で受信してプリンタで印刷できれば、現地の設備は最小限で済むのかなと思います。

質問8:

「データジャーナリズム」位置情報を利用していない場合には、どのような例があるのでしょうか?

回答8:

位置情報を利用しないケースとしては、講演資料で取り上げた下院議員の領収書を調べようプロジェクトなどがあります。その他、オープンガバメントの動きにも関連して、政府の予算の使い道を可視化するプロジェクトなど、お金の流れにからむものは重要性も高いと思います。より詳しい情報に関しては、英語になりますがThe Data Journalism Handbookを見て下さい。

質問9:

今WEBに出ていない情報で、さらに欲しい情報としては、どんなものが考えられるか?

回答9:

もちろん特定の欲しい情報はあります。しかし個別のデータではなく全体的な話をするならば、公益的なデータの保有者が公共の利益のためにデータをオープンにするということを、まずは求めたいと思います。もし大規模に公開されれば、その中にはきっと欲しい情報があるでしょう。そうした公益的なデータを保有する主体には、行政および公益企業があります。

まずは行政です。講演でもオープンガバメントの話題を少し出しましたが、行政は一般に出していない情報をたくさん抱えています。例えば防災情報、交通情報などが代表的なもので、それらは1)有料の専用サービスしか存在しない、2)ユーザ登録した人しか見られない、3)誰でも見られるが使いづらいウェブインタフェースで閲覧するしかない、という状況があります。例えば気象データを例にすると、ネット上には無料で使える多くのデータがすでに公開されているようにも思えますが、それは実際には一般的なデータに限られており、本格的にデータを利用したり専門的なデータにアクセスしたりすることを考えると、有料の(しかも場合によってはかなり高額な)データしか存在しなかったり、そもそもお金を出しても買えなかったりします。そうしたデータを、より使いやすいフォーマットで、できるだけ制限なく使えるようにしてほしいというのが希望です。一部の行政も最近はそうしたニーズに関心を持ち始めており、データの公開を通して周囲に新たな産業を生みだすことへの期待も語られています。このようにデータを公開するポリシーは「オープンガバメント」と呼ばれており、日本では特に経済産業省と総務省がそれぞれのやり方で動き始めています。

次に社会的なインフラストラクチャを支える公益企業(電気・ガス・通信・鉄道・交通・水道・放送等)です。これらに対しても、行政に準じるレベルでのデータ公開を望みます。今回の震災では特に東京電力を代表とする電力会社に対して、電力使用状況等に関するデータ公開への要望が高まりましたが、公開すると後で不都合が生じたときに困るという過剰に防衛的な組織文化があるのか、これだけの状況においてもデータ出し渋りの傾向は顕著でした。しかし震災時の計画停電などでも明らかになったように、社会インフラの状況に関する情報は生活の基本的な情報です。こうした情報の活用方法までを過剰にコントロールするのではなく、公益企業は信頼できるデータの提供を中心として、その活用は外部に任せてみてもいいのではないかと考えます。

ではなぜデータの公開が進まないのでしょうか。特に公益企業の場合はビジネス上の理由もありますが、行政も含めてよく持ち出される理由には大きく分けて2つあります。

第一はプライバシーの問題です。データの公開を通して、個人情報が漏れるとか、個人が特定できてしまうとか、そうした懸念は常につきまといます。まず考えられるのは技術的な解決策で、データを匿名化する手法や、個人を特定できる情報にアクセスしなくても計算が可能な手法など、現在の流行のテーマとして多くの研究が進行中です。しかしこの問題には万能な解決策はないので、プライバシーの問題が生じにくい分野のデータから公開を進めていくというのが現実的な路線かなと思います。

第二は安全の問題です。こうしたデータを活用すれば破壊活動、あるいはテロ攻撃が可能になるのではないかという懸念です。例えば今回の震災後に、鉄塔の位置データを電力会社が国土地理院に提供することを拒否したというニュースがありましたが、その理由はテロ行為への懸念でした。また計画停電の区域情報を明らかにしない理由もテロへの懸念でした。確かに情報がオープンになることでテロへの危険が上昇することもゼロではないでしょう。しかし、情報を公開する場合としない場合でどれだけテロへの危険性が変わるのか、合理的な説明はされていないようにも感じられます。単に「便利な理由」としてテロ対策を挙げることがないよう、こちらも見ていかなくてはならないと思います。

質問10:

「クライシス」から時間が経つと、アーカイブの意義が忘れられて、維持・管理が難しくなると思うが、日常の中の「クライシス情報学」は、どうあるべきか、意見をうかがいたい。

回答10:

日常生活でクライシスのことばかりを考え続けることはできませんので、時間の経過とともに忘却が進むのを避けることはできません。例えば私の個人的な体験としては、2009年の伊勢湾台風50周年記念行事として実施した伊勢湾台風メモリーズ2009の経験があります。会場を訪れた当時の被災者の方がおっしゃっていたのは、大規模な慰霊祭は50周年が最後かもしれないが、今後も若い世代、特に孫の世代には災害のおそろしさを繰り返し伝えていきたいという思いです。とはいえ、伊勢湾台風クラスの災害(戦後最大の風水害)でも風化は避けられないのが現実です。

そこで日常の活動の中に、特に教育の中に、クライシスを意識するきっかけを入れていくことが重要になります。今回の震災でも「釜石の奇跡」として、子供たちが周囲の人々を巻き込んで津波から率先して避難した事例が有名になりました。その子供たちが今回の震災より前から津波のイメージをつかめていたのは、インド洋大津波などの「津波の映像」を以前から見ていたことが一つの理由だそうです。これと同様に、今回の震災に関する各種の文字資料、映像、特にテレビ映像などは、後世の人の想像力を喚起する力を備えているはずです。こうした貴重な資料を、地域の図書館やその他の公共施設(学校等)でいつでも見て調べられるように、しっかりと情報を蓄積して利用しやすいように権利処理を進めておくことが必要だと思います。

また事実そのものを残すことと平行して、語り継ぎやすい「物語」を作っていくことも有効かもしれません。津波によってたくさんの人々が亡くなるという「昔話」は各地に残っています。その際には多少の脚色が加わることもありますが、教訓のエッセンスは実話そのものよりも理解しやすい形で残せる可能性があります。例えば実話に基づいて創作した物語として有名なのは稲むらの火という物語で、津波をいち早く報せることの重要性をよく伝える物語になっています。このような物語をたくさん生み出して蓄積していけるような情報システムを作ることも課題です。

さらに日常のちょっとした瞬間にもクライシスの痕跡が目に入るよう、町や都市の空間に人工的な痕跡を埋め込んでいくことも考えていきたいです。こうした痕跡を石碑の形で残すという方法もありますが、それを町の外れに設置してしまうと、日常の生活空間から離れて次第に忘れられてしまいます。例えば寺田寅彦の津浪と人間にも、明治29年の三陸津波の記念碑が昭和8年の三陸津波の時にはすでに朽ちていた状況が述べられています。そうではなく、もっと生活空間の中で目に入るような形で痕跡をデザインできないでしょうか。そこで思い出すのが、伊勢湾台風で被災した各地で見た高潮浸水位の看板です(高潮浸水位の例)。津波浸水位についても同じように人工的な痕跡を残せるはずです。

この痕跡は、必ずしも刺激的なものである必要はないと私は考えています。民宿の上に乗った観光船や横倒しになった大型タンクなどのショッキングな災害遺構を痕跡として残せば、外部の人が災害の規模を知るには効果があるでしょう。しかし現地の人にとってはそれらは生々しすぎる痕跡でもあり、日常生活の中でクライシスを意識するための痕跡として適しているのかは考える必要のある問題です。それでは代わりにどんな痕跡がいいのでしょうか。その一つの素晴しい例と私が思ったのが、津波が到達したラインに桜を植えるプロジェクト(桜ライン311)です。第一に、美しい花はクライシスのつらい記憶を和らげます。第二に、少なくとも一年に一回、花見をしに定期的に訪れることができます。花見というイベントを使ってクライシスの記憶を蘇らせる方法は、花見というイベントを効果的に使う「土手の花見」の話にも似て、クライシスの痕跡をうまく「デザイン」した例と言えると思います。

さらに現代風な方法としては、痕跡をサイバー空間に埋め込んで端末(スマートフォン等)を使って見るという方法があります。これは拡張現実(augmented reality / AR)という技術を使えば実現できますが、その有効性はまだ未知数なところがあります。ただしARを使えば、痕跡を埋め込む自由度はさらに高くなりますので、映像やその他のメディアを活用して、子どもたちも興味を持つような方法が実現できるかもしれません。

質問11:

個人のクライシスにも利用できるのではないか?病気になった場合、症状、場所、年齢を入れるとどこの病院のどの先生がどんな経験を有する。どんな薬が効果ある。ケアの仕方の経験の共有

回答11:

病気になったとき、各種のデータに基づき最適な医療を施す(投薬も含む)という考えかたは、根拠に基づく医療(Evidence-Based Medicine / EBM)と呼ばれて近年は重視されつつあります。また患者の側でも同様に、治療データに基づき医療機関を選ぶというのは自然な発想であり、病院のランキングサイトや口コミサイトなど各種のサービスも伸びてきています。このように今後も「データを重視する」トレンドは進んでいくとは思いますが、そこには限界もあり、データを適切に解釈しないと判断を誤ってしまうこともあります。収集されたデータには必ず目的や意図、限界がありますので、データの性質をよく理解した上で活用するようにして下さい。

質問12:

(質問1)先日の九州での大雨が降り洪水が出た時、気象庁で予測情報を流したが、地元の市役所が理解せず、避難指示が出ず、多数死者が出た事を、どうお考えですか?

(質問2)今回、九州(特に熊本県)で河川が氾濫し、大きな被害が発生した。気象庁が、警告を発していたのに、当該地域の所管の組織が能動的に回避行動(住民の避難誘導等)を起こさなかった。河の水位が上がって、やっと行動を起こすというフィードバックだけではクライシスの場合は不十分。究極は、データ・情報の利活用能力開発(→データのプレゼンは補助)が必要か?

回答12:

気象庁の情報がきちんと受け止められないという事態は、これまでもたびたび発生してきました。こうした防災情報は大量に流れてくるため、自分のための情報とは思えないし、すべてをきちんと受け止めて処理する余裕がない、ということが根本的な原因ではないかと思います。もちろん防災担当者に十分な知識がないという面があればトレーニングも必要ですが、そうした個人の努力に頼るだけではなくシステム的な改善も必要だと考えています。

気象庁の情報はあくまで全国を見るという視点、つまりすべての地域を同様に扱うという視点です。それに対して地方公共団体が必要とするのは、その地方を見るという視点、つまり特定の地域を重要視する視点です。このように視点を変換するには、情報の選別と読み替えが必要になりますが、慣れた人でないと簡単ではないかもしれません。

各地の防災担当者が理解しやすい情報を出すというのは、必ずしも気象庁がやるべきことではなく、気象情報会社のサービスとして実現した方がよいかもしれません。いずれにしろ情報をただ流すだけでなく、理解できるような形で流すことが重要です。そのためには情報表現も検討しなければなりません。例えば「これまでに経験したことのない大雨」という比喩的な表現を使うと本当に理解しやすくなるのか、あるいは危険度を数字だけに単純化した方がよいのではないか。こうした表現の問題を気象学関係者だけで解決できるかどうかは疑問で、デザイナーやコピーライターなどの多様な人材の協力を求めて検討したほうがよいかもしれません。

最後に重要な点を考えてみたいと思います。自分の命や財産を、地方公共団体の担当者に預けてしまっていいのかという問題です。確かに地元の市役所から出ていた情報は不十分だったかもしれませんが、情報が出なかったから被害に合った、情報が出ていれば被害に合わなかった、という考え方のままでいいのでしょうか?彼らは直接の加害者ではないですし、いくら彼らの責任を追及しても、失われたものは戻ってこないのです。情報がなかった昔はすべてが自己判断でした。情報が存在するようになって「責任」が生じたのです。すべての災害には責任者がいるはずだ、というのは比較的最近の考え方ではないでしょうか。災害が神様の怒りや誰かの祟りのせいで発生していた時代には、誰も責任者はいませんでした。もちろん被害者を減らすための努力は平常時から、そして緊急時にも最大限に進めるべきです。行政は住民の命を守ることが仕事ではありますが、かといって責任を押し付けるだけで自分の命が救われるわけではない。既に起こってしまった災害の責任については裁判等で解決していく面もありますが、今後起こるかもしれない災害に対しては、すべてを行政に任せるのではなく、自分自身のことは自分でも「責任」を持って行動していく必要があると感じています。

質問13:

情報公開がどこまで可能なものか?

回答13:

情報公開がどこまで可能なのかは難しい問題です。ただクライシスに関する情報は、国民が一刻も早く対策を取れるように、できるだけ早く国民に伝えることが基本だと考えます。特に、人々にとってショッキングな内容を含む情報であっても、それを理由に公開するかしないかを恣意的に判断することを避けるべき、と私は考えています。政府が情報の公開をしないケースは、明らかに公開によって問題が生じる場合に限定すべきでしょう(例えば軍事情報など)。

ショッキングな情報かどうかは、実際には人によって受け止め方は大きく異なりますし、そうした情報を受けても冷静に対処できる人もいます。例えば原子力災害では、情報を公開しようがしまいが事態は着々と進展していきますので、情報のコントロールによって事態をコントロールすることはできません(強いて言えばパニック発生の有無については議論の余地がありますが)。そうした場合には最後は個人の力に任せるしかないという面もありますので、例えば原子力災害時のSPEEDI情報などは公開を止めるべきではなかったと私は考えています。

質問14:

今回の東日本大震災で文部科学省のシステム・スピーディが機能しなかったのは何が原因でしょうか?

回答14:

全体的に見てスピーディ(SPEEDI)が機能しなかったというのはその通りですが、具体的にどこが機能しなかったのかは詳細に分析する必要があります。その分析についてはSPEEDIによる放射性物質拡散シミュレーション/理想と現実の狭間から見えてきた問題という論考や、東日本大震災に関するエッセイ・論文等の記事にまとめましたが、その後に新たに判明した事実もありますので、今後も分析を続けていきたいと考えています。

現時点での私の評価を短くまとめれば、システムそのものは想定した機能の一部を果たしたものの、その活用体制はまったく機能せず、そうなった原因はシステムの問題よりも組織文化の問題が大きいのではないか、というものです。ここでの活用体制には、SPEEDIの直接の担当部署だけでなく、その活用を指揮すべき行政の上層部や政府なども含みます。システムの出力結果が正確だったかどうかはあくまで問題の一部でしかなく、クライシスに対してどのように臨機応変な対応が可能なのかという観点から、行政の文化も含めて問題の全体構造を分析する必要があると考えています。

質問15:

有事の際、日本では、どこの省庁が横断的情報発信をすることになるのか?(内閣府??)

回答15:

有事の際に情報を流すためのネットワークが日本には存在します。それがJ-ALERTです。ウェブサイトによると、これは消防庁が整備した全国瞬時警報システムの通称で、通信衛星を用いて国(消防庁)から情報を送信し、市町村の同報系防災行政無線を自動起動するなどして、住民に緊急情報を瞬時に伝達することができるとのことです。緊急地震速報や津波情報、気象情報等については、気象庁から消防庁に情報が流れ、武力攻撃については内閣官房から消防庁に情報が流れます。その後、消防庁の管理システムから地域衛星通信ネットワーク経由で全国の地方公共団体に情報が流れ、住民にまで情報が届くという仕組みです。

しかしせっかくのシステムも有事には機能しない可能性があることが、2012年4月の北朝鮮によるミサイル発射に関する情報伝達時に露呈しました。誤報を出すことを恐れた政府は、情報の確認に時間をかけすぎて、緊急事態が終了した後に情報を発表するという失態を見せたのです。そこには原子力災害が落ち着いてから出てきたSPEEDIと共通する文化的背景を感じます。クライシスに誤報はつきもので、むしろ事態が終わってから正しい情報を出すことこそ非難されるべきでしょうが、一方で世の中には誤報を非難する人が多いことも確かで、その経験から「誤報を恐れる」という姿勢が生まれてくるのでしょう。ゆえにこの問題は、行政を批判するだけでは解決しないという面もあります。たとえ不正確であっても国民の生命や財産を守るために一刻も早く情報を出し、その上で誤報を許容する文化を行政と国民の間で共有していければと願っています。

質問16:

情報が滞らない行政等組織にしてゆくためには、どうしたらよいか、ヒントはあるでしょうか?

回答16:

情報が滞るというのは、情報の流れの中に「承認」や「許可」などの判断が必要な部分が多いからでしょうが、これは組織文化そのものの問題であって、そう簡単に変えることはできません。ただSPEEDIが一つの象徴的事例であったように、情報の公開が誰かの判断によって決まることがないよう、その場での判断によらず自動的に情報が流れるような仕組みを作っておくことが必要だと思います。また原発事故関係の議事録が未作成だった問題も別の意味で象徴的事例ですが、この件に限らず日本には記録を残すことの重要性に対する意識が希薄な傾向が以前からあります。米国では公文書が一定の年数経過で自動的に公開となりますが、そこには個人の都合よりも歴史の検証を優先するという思想があります。そして、それを支える米国の公文書館の充実ぶりに比べると、日本の公文書館に対する認識は低く、しかも記録がしばしば「紛失」することからもわかるように、記録の保存に対する意識も低いままです。

結局のところ日本では、情報のコントロールが個人の都合に左右されすぎるのが問題なのではないでしょうか。原発事故に関しても、人命を救う、歴史の証人となる、という個人を越えた大目標はすっかり忘れさられ、個人の責任を回避することが情報の扱いを決める判断基準となってしまっています。理想を言えば、何のために情報を扱っているのかという大目標に沿った形で情報を扱えば、個人の都合を越えて機械的に情報が流れるのではないかなと想像します。もちろん、その大元となる組織の文化を変えないで、情報の流れだけを変えるのは難しい面はあるのですが。。。