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1902年1月25日、北海道の旭川で日本の最低気温マイナス41.0℃を記録しました。天気図を見ると、北海道の東に低気圧、九州の西に高気圧があり、等圧線も4本しかありませんが縦縞に並んでいて、西高東低の冬型気圧配置となっています。旭川は山に囲まれた内陸にあるため、強い風が吹きにくく、夜間地面から熱が奪われる「放射冷却」が強まり、特に冷え込みます。さらに雪が積もっていると、昼間日がさしても、太陽からの熱は雪をとかし蒸発させるために使われ、地面がなかなか温まりません。旭川など北海道の内陸では、冬になるとこうした条件が重なるために、富士山の山頂よりも冷え込むことがあります。この時の大寒波は、歴史に残る大きな出来事を引き起こしています。日露戦争の直前、青森県八甲田山で雪中行軍をしていた兵士199人の遭難死です。この出来事は、のちに小説(『八甲田山死の彷徨』新田次郎著)や映画にもなりましたが、日本列島が史上もっとも強い寒気に見舞われた中での出来事だったのです。
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